提供:しながわ観光協会|取材・文・撮影:有限会社ノオト
JR品川駅を南下すると、江戸時代の風情を再現した街道が現れます。そう、ここは旧東海道品川宿。鎌倉時代初期の1200年ごろから「港町」としてにぎわい、江戸時代になると東海道五十三次の一番目の宿場町として一層栄えました。当時、周辺の家数は1200軒を数え、そのうち約130軒は旅籠屋(はたごや)だったといいます。
旧東海道にある品川寺(ほんせんじ)は品川エリアで最も古いお寺です。その歴史ある品川寺の住職・順和和上(じゅんなわじょう)さんに、寺の歴史や街の変化、そして品川寺とオリンピックの深い関係について伺いました。
順和和上:品川寺は9世紀前半に、開創されました。品川は歴史ある町であり、海の幸にも野の幸にも恵まれ、周辺に住む人々は豊かで平和な生活をしていたんです。
その後、品川寺は、江戸時代を通じて水月観音尊と大梵鐘、江戸六地蔵第一番尊をお寺の三宝として大切にし、町の人々から深く信仰され、東海道を行き交う多くの旅人に愛されました。
しかし、時が流れて江戸時代の末から明治維新を迎える頃、寺は荒廃。大梵鐘もパリ(1867年)とウィーン(1871年)の万国博覧会に出品された後、行方不明になってしまいます。
その後、大正5(1916)年に私の先代の順海和上が入山し、行方不明の大梵鐘を探し始めました。何しろどの国にあるかもわからないものですから、当時まだ多くない留学生や海外旅行をされる方、外交官にお願いしたと聞いています。
そうしたあらゆる努力が実を結び、3年後の1919年、スイス・ジュネーブ市のアリアナ美術館に大梵鐘があると確認できました。
大正15(1926)年、先代が第三十世住職として晋山(しんざん)【※】。以降、大梵鐘の日本返還計画は順調に進み、昭和5(1930)年5月5日には、大梵鐘がジュネーブより贈還。大梵鐘は横浜港に到着後、東海道を牛車にひかれて、60数年ぶりに品川寺に返ってまいりました。
【※】晋山…新しく住職になる者が初めてその寺に入ること
これを機に、鐘楼、会堂、客殿、拝殿、会館が建立され、今に至っています。
トラックに積まれた大梵鐘
大梵鐘が八ツ山(写真左)と旧東海道(写真右)を通る様子
順和和上:大梵鐘を快く返還してくださったジュネーブ市の皆様の恩に対して、先代はどう応えたら良いのかを考え続けられていました。その絶好の機会が、昭和34(1964)年の東京オリンピックだったんです。
先代は「スイスから来日される選手団の皆様を、ぜひ品川寺に招待したい」と申し出ました。そこで、オリンピック開催の2年前から私もその準備を手伝い、スイス選手団150人の訪問が実現しました。私は当時30歳で、先代は81歳。大梵鐘の返還から30年以上が経っていました。
とくに気を使ったのは食事でしょうか。刺身などのナマモノはもちろんご馳走できませんから、果物を中心に用意しましたね。スイスの選手の皆さんは、「自分たちの父や母らがしたことに対して、ここまで歓待してくださるのは非常に嬉しいことだ」と喜んでくださりました。
1964年、スイスの選手を迎え入れた際の品川寺
順和和上:1960年代当時、品川寺がある青物横丁の一辺は、企業の下請け工場が多くありました。
朝はお豆腐屋さんや納豆屋さんらが町を回って、工場勤めの人たちに食材を販売するのが日常生活だったのです。魚屋さんは盤台を担いで、うちの前で魚をさばいたり、刺身をこしらえたりして。そうすると、近所の人らが集まって魚を買いにやってきてお話をするわけです。当時はまだ井戸の水が使えましたので、音のある生活でした。外ではギッコン、ギッコンと音がしていましたね。
ガラリと変わったのは、子どもの遊びでしょうか。夕方になると学校帰りの子どもたちが集まって、オリンピックの行進を真似したりしていました。品川寺には、ご近所だけはもちろん、鮫洲や北品川などの学校に通っている子どもたちも集まり、交流の場になっていましたね。
昔は路地裏を使って庭を抜けていき、かくれんぼや鬼ごっこをして遊んでいたものですが、行政によって建物の建て方が変わり、路地裏自体がなくなっていきました。
日本全体で言えば、オリンピックを境に街は大きく変わったと思いますが、品川ではあまりそうは感じませんでした。祭りなど、昔のものを大事にする土地柄のせいかと思います。
順和和上:オリンピックが終わった後も、「一度、ジュネーブを訪れ、お礼を言いたい」と先代はお話されていましたが、昭和43(1968)年にその夢は叶わぬまま、亡くなられました。
そしてその年、私が第三十一世住職として晋山しました。まず、同じ形の梵鐘を新たに鋳造し、アリアナ美術館に贈呈するという先代の希望を実現に移すために動き始めました。
1988(昭和63)年には、アリアナ美術館館長のマリー・テレーズ・クレリさんが品川寺に来山し、梵鐘贈呈の打ち合わせをしました。そこで、梵鐘鋳造333年、返還60周年、順海和上23回忌、スイス国建国700年に当たる1990年に、品川寺からジュネーブ市に対して、感謝の印として新梵鐘を鋳造することを約束しました。
1990(平成2)年には新梵鐘贈還式典が行われ、品川の街をあげてジュネーブ使節団を歓待しました。翌年、新梵鐘出立式を経て、新梵鐘がジュネーブへ出発。同年9月には、ジュネーブ市との友好都市関係が正式に締結されました。
友好都市の提携を結ぶまでの数年間、私は毎年3~4回はヨーロッパを訪れていましたが、その際は必ずジュネーブに立ち寄っていましたね。
新梵鐘出立式の様子
順和和上:その後も今に至るまで、双方の交換留学生を招待するなどの交流は続き、両都市は友好を深めてきました。次世代を担う子どもたちには、世界を見てさまざまな価値観を学んでほしいと思っています。
相対的な価値観を持つためには、歴史をよく知ること、そして自分自身の命に対して祈ることが必要です。人は、うっかりすると絶対的な価値観を抱いてしまいます。それを持ち続けるのは怖いことであり、間違っています。そのためには、多様な価値観を得られる場所をできるだけ作っていかなければいけません。品川を平和な街として残していきたいですね。
※記事中の情報は2021年7月20日時点の内容です。
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